カトリック清水教会 Catholic Church of SHIMIZU
十字架とステンドグラス(聖堂入口上部)

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カトリック清水教会
静岡県静岡市清水区岡町1-34
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聖堂正面のブローニュの聖母 献堂50周年を記念して化粧直しされました。

 聖堂が落成した翌昭和11年(1936)2月26日、皇道派の青年将校が起こしたクーデター事件(2・26事件)を契機に、軍部による政治への介入が一段と顕著になりました。
 国家神道を思想の基調として、忠君愛国、滅私奉公の精神を高揚し日一日と戦時体制化されてゆく社会の中にあって、不本意ながら教会も同じ軌道に乗らざるをえない状況でした。
 カトリック教会が耶蘇教と呼ばれていた時代のこと、教会は周囲の目を気にしながら身を小さくして生きて行かなければならない時代に追い込まれて行ったのでした。

完成当時の聖堂と司祭館 写真右側にドラエ神父が写っています。

戦時色強まる
 昭和13年、清水港は軍の指定港となり戦時色はさらに強くなりました。ドラエ神父の身辺には絶えず官憲の目が光るようになり、行動も思うに任せなくなりました。
 しかし、神父はそのような圧力にひるむことはありませんでした。
 富士宮地区にも教会を建てようと土地を求めて出かけています。
 排外観念が一般化してた戦時中のこと。外国人は即スパイと結びつけられることがしばしばありました。そば屋に入っても断られ、満足な食事もままならず、空腹で帰路についたところを警官に呼び止められ、長時間の尋問を受けるということもありました。
 昭和14年には「宗教団体法」が公布され、宗教法人として公認されることになりますが文部大臣の干渉権が明示されています。
 昭和15年には皇紀(神武天皇即位の年)2600年であると称されて、全国的に祝典が繰り広げられました。大政翼賛会、産業報国会、大日本婦人会から隣組まで国民生活の全域に統制が敷かれます。国家や地方自治体による法的宗教規制ともに、神父や信者たちの生活行動も一層苦境の道をたどることになりました。  そのような逆境の中で、ドラエ神父の硬骨ぶりを示すエピソードを「静岡県宣教史」が伝えています。

聖堂正面右側にある鐘楼(2008年撮影)

●1941年4月、一人の警官がドラエ神父に次のように言いました。
 「…鐘楼はきっと静かでよい景色だろうね」。
 鐘楼は港に向いた展望台です。
 「あなたの言いたいことは分かる。私と一緒においでなさるがよい」
 と神父が答え、二人は鐘楼に登ります。警官は何かの信号施設ではないのかと確かめに来たのでしたが、それは憶測に過ぎませんでした。

●一般家庭でも鍋釜類の鉄製品は供出を強要されていました。
 鐘楼の鐘を軍需工場に送ってほしい旨の申し入れがあった時のこと、神父は近くの消防分団に出向いて交渉します。
 「警報を鳴らすために教会の鐘を使ってください。但し、戦争が終わったら必ず返してほしい」と。
 分団では喜んで承諾しました。これによって鐘は溶かされることを逃れ、今も美しい音色を響かせています。

戦時下の教会
 戦況は昭和17年6月のミッドウェー海戦で日本海軍が大きな打撃を受けてから一転して戦局の主導権は連合国の手に移り、19年になるとB29の本土空襲が始まりました。
 ドラエ神父は教会の空き地を耕し、野菜や麦を作っていました。その畑にも大きな防空壕が造られ、教会の石垣(現在の保育園給食室付近)にも横穴が掘られて、消防車が2台格納できる防空壕になってしまいました。

戦局は日を追って悪化
 戦局はいよいよ不利になり、空襲警報に怯えながらの暮らしになってきます。軍需工場を抱えた清水でも、陸海軍や警察当局の姿勢が一段と厳しさを増し、教会に対しても敷地だけではなく、建物の使用を要請するようになりました。
 ドラエ神父は陸海軍の将官、警察官の訪問を受けることになります。訪問の真意は教会内に彼らの事務所、資料、負傷者を移すことにありました。ドラエ神父は彼らの要請を拒絶することはありませんでした「どんなことでもお役に立ちたいと思うのですが、警察の方が既に計画を立ててしまわれた」、あるいは「残念ですが、市役所がここに避難をしたいと言っております」とかわしているところへ、東京のサレジオ会とその孤児たちが宿泊を求めてきたのでした。

昭和19年2月、扶助者聖母会の修院長レチチア・ベリアッチが4、5名のシスタ−とともに女の子の疎開児童約50人を連れて清水にやってきました。
 そのシスターの一人であった静岡星美学園長シスター柴山の談話によると、東京三河島のホームで空襲の危険を感じるようになりました。そこで、典礼暦に記載された教会所在地から地方の教会を選び出し、教会宛に児童疎開の依頼書を送りましたが、数多くの教会にあてた依頼状に対して、受け入れの返事はわずか1通。それが清水のドラエ神父のものでした。
 伝道館(旧入江教会建物)の2階で1年あまりの生活が続きましたが、その間にシスター柴山を含む数名の終生誓願式が清水教会で行われました(19年12月8日)。シスターたちは皆、モンペ姿でした。
 12月7日、清水地区へ第1次の空襲があり、以後小規模ながら清水も爆撃を受けるようになりました。 清水教会にはシスター柴山とシスター相川の二人が残り、子供たちは山中湖畔へ移っていきました。

 昭和20年7月7日未明、清水はかつてない大規模な空襲をうけました。当時の記録によれば「B29が来襲し、約3時間半にわたり焼夷弾を投下した。この大空襲により市街地の大半が消失。被災者約34.000人、死傷者440人を出した。」
 7月31日からは艦砲射撃と機銃掃射を受けます。教会付近の下清水、上清水もほとんど灰燼に帰した中で教会内の建物は被災することもなく一人の負傷者も出ませんでした。とはいうものの、教会は焼け出された市民や負傷者の宿舎に変わり、聖堂内の柱も負傷者の血で染まるありさまでしたし、司祭館の一部は憲兵とその家族が占領し、教会本来の機能も剥奪された状態でした。それでも、ドラエ神父の捧げる毎朝のミサは絶えることがありませんでした。

閑題休話

アンドレア神父のこと
神学生時代清水教会の人であったアンドレア松村菅和神父  長年カリタス・ジャパンで活躍し、国際カトリック難民・移民委員会の国際委員などの重要な役職に就き、世界をまたに東奔西走した松村神父も清水教会と深く関わっています。 アンドレア松村菅和は少年時代から軍人を志望していました。昭和9年、静岡城内小学校を卒業した少年は上京し暁星中学に入学、司祭への道を進みます。
 翌10年、下清水に聖堂、司祭館が完成すると、村越銑造夫妻に変わって松村少年の母マリア桐がドラエ神父の世話をすることになり、静岡から移転してきました。少年神学生は夏休み、冬休みになると母の住む清水に帰省し、神父の手伝いをしたり、男の子たちにミサ答(ミサこたえ:侍者)の指導に当たるなどして過ごしました。昭和17年4月、大神学校1年に在学中に学徒動員の召集令状を受け、清水教会から出征しています。昭和26年1月、神学生時代を清水で過ごした松村青年は、静岡教会で神父の第一歩を踏み出したのでした。

野沢広行医師のこと
 毎日の食糧難にあえぐ中にあって、一人の未信者がドラエ神父を助けました。教会の近くで内科医院を開業していた野沢広行医師です。ドラエ神父の主治医で、神父と親しかった方です。
 戦後間もなくフランスの故郷へ帰ったドラエ神父から、野沢医師の元へローマ字の手紙が届きました。その中に「今年の末には是非、我が日本へ帰りたいと思っております」との一句がしたためられていました。
 「敗戦後の惨めな日本を去って故国へ帰られたのであるから、もう二度と日本へは戻ってこられないであろう」と思っていた野沢医師には、これは意外な音信でした。もう、70歳を遙かに超えた方が、日本人のため生涯にわたって神の福音を指導し、身を終えられようとしている。と、深い感銘を受けたことを著書「鉄舟寺禅」に記しています。
 昭和23年10月下旬、フランスへ帰国したドラエ神父は、同25年4月には伊東教会へ赴任し、5年後には静岡市西草深にあるパリー外国宣教会静岡支部で静養されることになりました。昭和32年8月、心のふるさとであった谷津教会で帰天されました。73歳でした。
 最後の脈を取ったのは、未信者ではありましたが、信仰の人、愛の人であった神父を敬愛していた野沢医師でした。
 静岡県下で40年にわたり宣教・司教の仕事に多大の功績を残されたドラエ神父はまた、個性の強い方で、子どもたちには「おっかない神父さま」のイメージも強かったようですが、その人柄は一般の人たちからも尊敬されていました。

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【このコーナーの出典】
「カトリック清水教会のあゆみ(1〜4)」の本文と掲載写真の一部は、昭和60年11月10日発行のカトリック清水教会50年史「50年の歩み」 に基づいて作成しました。(著作権保有:無断転載禁止)
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